十四の年。俺が思うには男は何をしても一生喰われるから、上方辺りへかけおちをして一生
  十五の年か(前頁参照)。 駆落は 戦に敗れ逃げ落ちるが本意で逐電・失踪に転意。
居よう、と思って五月の廿八日(夏)股引を穿いて内を出たが、 世間の中(世の中の事)は一向
知らず、金も七、八両計り盗み出して腹に巻き付けて、先づ品川まで道を聞き聞きして来たが、
何だか心細かった。夫それそれから無闇に歩行あるいて其その日は藤沢へ 泊ったが、
  本所の男谷の内(家)から品川まで約12Km、藤沢まで60Km弱。 時速4Kmで休まず歩いて15時間。
翌日早く起きて宿を出て どうしたら良かろうと ふらふら行くと町人の二人連れの男が跡より来て、
俺に 「 どこへゆく 」 と聞くから、
「 あては無いが上方へゆく 」 と云ったら、
「 わしも上方まで行くから一所にゆけ 」 と云いおった故、俺も力を得て一所に行って小田原
泊った。

其時、「明日は御関所だが手形は持っているか」 と云う故、
「そんな物は知らぬ」 と云ったら 、
「銭を弐百文出せ、手形を宿で貰てやる」 と云うから そいつが云う通りにして関所も越したが、
油断はしなかった。浜松へ留まった時は二人が道々よく世話をして呉れたから少し心が緩んで
裸で寝たが、其晩に着物も大小も腹にくくしつけた金もみんな取られた。
朝 目がさめ枕元を見たら、なんにも無いから肝が潰れた。宿屋の亭主に聞いたら、
「二人は 『尾張の津嶌祭りに間に合わないから先へ行くから跡より来い』 と云って立ちおった」
と云うから俺も途方に暮れて泣いていたよ。
  津嶌祭りは、津嶋神社の天王祭(重要無形民族文化財、今も毎年7月)であろう。
   この愛知県津島市の津嶋(津島)神社は全国三千の津島神社の総本社として知られる。

亭主が云うには、
「夫は道中の護摩の灰と云う物だ。私は江戸からの御連れと思ったが 何にしろ気の毒な事だ。
 どこを志して ゆかしゃる」 とて しんじつ(信実? 親昵?)に世話をしてくれた。
俺が云うには 「どこと云う あては無いが上方へ行くのだ」 と云ったら、
「何にしろ襦袢ばかり にては仕方がない」
「どうしたら良かろう」 と、途方に暮れたが 亭主が柄杓壱本くれて、
「是まで江戸子が此の街道にては まゝそんな事が有るから、おまえも此の柄杓を持って浜松の
 御城下、在ざいとも(まわって)壱文ヅヽ貰てこい」 と教えたから 漸々思い直して一日方々貰て
歩行たが、米や麦や五升ばかりに銭を百二、三十文 貰って帰った。 亭主いゝ者にて、其晩は
泊めて呉れた。


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