二十一の年(文政5年 1822年)には一文も無くって仕様が無かった。
差料の刀は終や(終屋?尾張屋?)久米右衛門と云う道具(屋)より買った盛光 (長船盛光・おさふね もりみつ、
備前国長船=岡山県瀬戸内市長船町の室町時代前期の刀工)
の刀、四十一両で買ったので夫を売かと思ったが、
夫も惜しいから よした止した が、逢対に行くにも着たままになったから、気休めに吉原へ行った。 親が
呉れた刀やら色々質に置いて、相弟子へも金を借り色々して漸々三両弐分ばかり出来た(の)を持って、
その晩は吉原へ行って、翌日、車坂の井上の稽古場へ行き 剣術の道具を一組借りて、直に東海道へ
駆け出した。
  (この再出奔は、もう一つの著作【詠め草】(ながめぐさ)では、麟太郎誕生後の廿二歳の時、と記している)

其日は無極むごくに歩行てあるいて藤沢へ泊って、朝七前に立って小田原へ行って、先年世話になって
いた内の喜平次を尋ねて行ったが、喜平も乞食が侍に化けて来たものだから始めは不審したが、喜平
の内を出ただ、と云ったら漸々思い出して、色々酒なぞ振る舞ったが、三百文盗んだ事を云い出して
金を弐分弐朱やった。外ほかに酒代を弐朱出して 以前船へ一所に乗った野郎共を呼んで酒を呑みして、
今は剣術遣いになった事を咄して笑ったら、みんなが胆を潰していた。
「今晩は是非とも泊まれ」と云ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って
箱根へ懸かった。

喜平次と外三人計り三枚橋まで送って来たから、そこより返して漸々関所へ懸かったが手形が無いから
関所の縁側へ行って、剣術修行に出し由 申し、
御関所を通し下され」 と云ったら手形を見せろと云うから、そこで俺が云うには、
「御覧の通り江戸を歩く通りの形なり故、手形は心付かず。 稽古先より風とふと思い付いて上方へ修行に
上り候。雪踏せったを履き候まゝ旅支度も致さず参りし事故ことゆえ、相成る可くは御通し下され候様に」 と
云ったら、番頭ばんがしららしきが云うには、
「御大法にて手形なき者は通さず。しかし御手前の仰せの如く、御修行とあれば余儀なき故、御通し申す
可し。以来は御心得 成さる可し」 と云った故、
かたじけない」 とて夫から関所を越して休んでいたら、跡より来た商人が云いおるには、
「今私が御関を通りましたが、お前様の噂をしてござったが、『今通った侍は飛脚でもないが藩中でもなし、
なんだろう』 とて噂をしていました」 と云うから、
「其筈だわ、俺は殿様だから」 と云ってやった。
  (御旗本は殿様と呼ばれ、御家人は旦那様。 御旗本と証明できれば手形は不要の筈だが着の身着の儘か)
 


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