其内、親父より度々書取にして意見を云って呉れた。其時、
「隠居して、息子(麟太郎)三ツ(文政8年 1825年)になるから家督をやりたい」 と云ったら、
「夫は悪い了簡だ。是まで種々の不埒があったから、一度は御奉公でもして世間の人口ひとぐちをも塞ぎ
(世間の評判を払拭し)、養家へも孝養をもして、其上にて好きにしろ」 と親父が云って寄こしたから、尤も
の事だと初めて気が付いた故、
「出勤(ここでは逢対に出る事)がしたい」 と兄へ云ったら、
「手前が手段で勤め道具、衣服も出来るなら勝手にしろ。俺はいかいこと厳い事手前には入り揚げた故、
今度は構わぬ」 と云った故、其時は俺が ほうの下に腫物がしていて寝ていたが、「少しも苦労は懸け
まい」 と云う書付を出して檻を出た。 翌日、拝領屋敷(四谷御箪笥町、277坪余)へ行って、家主いえぬし
(地主の代理差配・管理人=家守やもり)
へ談じて金子弐十両借り出して、色々入用の物を残らず拵えて、
十日目に出勤した。

夫から毎日々々、上下かみしもを着て諸所の権家を頼んで歩いた。 其時 頭が大久保上野介と云いしが
赤坂喰違くいちがいそと だが、毎日々々行って御番入を責めた。夫から以前より色々悪い事をした事を
残書取て、「只今は改心したから見出して呉れろ」 と云ったら、取扱が来て、
「御支配より隠密(御徒目付・監察)を以って世間を聞き糺すただすから其心得にていろ」 と云うから待って
いたら、頭が或時云うにや、
「配下の者は何事も隠すが、御自分は不残行跡を申し聞いた故 処々聞き合した所が、云われたよりは
事大きい。しかし、改心して満足だ。是非見立てやるべし、精勤しろ」 と云うから、出精して、合(間)には
稽古をしていたがの。度々書上かきあげ にもなったが、兎角とかく心願が出来ぬから悔しかった

  大久保上野介久五郎忠誨(たださと)は五千石、居屋敷 2,160坪の御旗本で、文政7年6月から8年11月まで小普請組支配なので夢酔の記述と合致する。
  文政末期、御小性組御番頭を勤めた頃の忠誨組へ御番入リしたのが、後に麟太郎(海舟)を見出だす大久保忠正(忠寛、後に一翁)と云う奇遇もある。
  尚、忠誨はその後に13代将軍・家定や御本丸の御側役となる。 亦、忠誨の7代前の忠爲の弟がお馴染み大久保彦左衛門忠教である。

  書上は文書にして役所や上司に差し出す事。



此年(文政8年 1825年、24歳親父や兄に云い立て外宅をして、割下水天野左京と云った人の地面を
借りて、今迄の家を引いた。 其時、居所に困ったから天野の二階を借りていた内に、俄に左京が大病
にて死んだ故、色々と世話をした。其内に普請もでき新宅へ移り居ると、左京方にては跡取りが二歳故、
本家の天野岩蔵と云う仁が旧来の意趣にて家督願いの時、六むつかしく云い出して左京の家を潰さんと
したから色々もめて片付かず、其時 俺が本家とは心安いから色々なだめ、到頭家督にさせた。
  天野左京 御旗本・天野景明の惣領  家禄200俵 本所南割下水に328坪余 生国武蔵 本国遠江
          厄介になった男谷邸から約700m (墨田区亀沢1-17-5 ~10 の南約半分)。
          男狂いの母は、小吉7歳の頃の組頭・小尾大七郎信皓 の叔母なのを小吉は識っていたか?


天野の親類が悦んで猶々跡の事を頼みおったから世話をしている内、左京のお袋が不行跡ぎょうせき
やたらに男狂いをしおって、不断騒動して困るから、折角普請をしたが其家を売て外へ越そうと思った。
左京の子 金次郎が頭向かしらむきへ云い出したら、その取扱が云うには、
「今お前に行かれると跡は乱脈になるから壱両年いて呉れろ」 と云うからいた。人の事は治めても俺が
内が治まらぬから困っていたら、或老人が教えて呉れたが、
「世の中は恩を怨で返すが世間人の習いだが、お前は是から怨を恩で返して見ろ」 と云った。其通りに
したら追々内も治まって、喧しいばゞあ殿も段々俺を能よく して呉れるし、世間の人も用いて呉れるから、
それから人の出来ぬ六ケ敷むつかしい相談事、懸け合い、其外そのほか 何事に限らず、手前の事の様に
思ってしたが、しまえ(仕舞い)には俺に刃向かった奴らが段々従って来て、はいはいと云いおる。

これも かの老人が賜物と嬉しく、同流の剣術遣いが不埒ふらち又は遣込つかいこみ して途方に暮れている
者は、それぞれ少しヅヽ金を持たせて諸方へ遣わし身の安全をしてやりしが幾人か、数も知れず。
其後、俺が諸国へ行った時、いかい事 得になった事がある。歩行あるいた所で俺が名を知っていて(俺の)
世話をしたっけ。




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