本所割下水】 ほんじょうわりげすい
 

割下水は、道路の真ん中を掘り割った(溝よりも大きい)下水路。

湿地帯を築地して造成された本所は、水はけが悪いので掘られた
排水路。両国橋(仮橋)が架かった翌年の万治3(1660)年に完成。
(両国橋は1659年に仮橋、1660年命名、本橋は1661年3月竣工)

下水路ではあるが、余り汚くはなく (生活用水を無闇に流さず米の
砥ぎ汁も拭き掃除に用いたり草花に与えた)、主に雨水排水路で
川魚・沢蟹・蛙など沢山の生物が棲んでいた。

井出よりも蛙の多い割下水 
(江戸時代の川柳、京都・井出の玉川より蛙が多いと)

本所には、北割下水(現在の春日通り)と南割下水とがあったが、
単に割下水と云う場合は南割下水を指す。亦、その一帯の地名
でもあり、最近(北斎通りと云い出す前)まで割下水で通用した。
御竹蔵の東から横川までの長さ約1Km、水幅約9尺(約1.6m)。
(横川から東は錦糸町の語源である錦糸堀

割下水の傍には近藤弥之助のほか小吉ゆかりの天野左京(A)や
山口鉄五郎(B)、岡野孫一郎(C)、青木甚平(D)も住んでいたし、
葛飾北斎(生誕地は不詳)や山岡鉄舟(E)もこの近辺で生れたと
され 明治初期には三遊亭円朝(F)や河竹黙阿弥(G)も居住した。























    二目(清澄通り、上地図の黄色矢印)から見た割下水跡、中央奥の高いビル(アルカタワーズ)から先は錦糸堀跡

 


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