他流は勝負をめったには しないから 皆 下手が多くあった故、俺が十八の年(文政2年 1819年)
浅草の馬道に生江政左衛門と云う一刀流の師匠がいたが或時 新太郎と忠次と俺と三人で行って
試合を云い入れた。早速に承知した故、稽古場へ通って其弟子と俺と遣ったが、初めてのこと故
一生懸命になって遣ったが向うが下手で俺が勝った。夫から段々遣って師匠と忠次と試合ったが、
忠次に政左衛門が体当たりをされて 後ろの戸へ突き当てられて、戸がはずれて あおのけに倒れ
たが、起きる処をつゞけて腹を打たれた。 其日は夫ぎりで仕末しまったが、始めに 師匠が高慢を
ぬかしたが憎いから、帰りには俺が玄関の名前の札を抜打にして持って帰った。

夫から方々へ行き暴れた。馬喰町の山口宗馬が処へ、神尾、深津、高浜、俺、四人で行って試合を
云い込んだら、上へ通して宗馬が高慢をぬかした故、試合をしようと云ったら、「今晩は御免下され」
(後日)重ねて来いと云った故、帰りがけに入口ののうれん暖簾を高浜が刀で切り裂いて奥へ放うり
込んで帰った。

夫から同流の、下谷あたり、浅草本所共に、他流試合をする者は みんな俺が差図を受けたから、
二尺九寸の刀をさして先生づらをしていた。井上伝兵衛先生が其頃は門人多く、だんだんと重立ちし
やつら皆々俺が配下同然になり、藤川鵬八郎門人、赤石郡司兵衛が弟子、団野のは云うに及ばず
きり従い、諸方へ他流(試合)に行った。運がよく皆よかった。他流(試合)は中興 先ヅ俺が始めた


【 赤石郡司兵衛孚祐 】 あかいし ぐんじべえ?ぐんじひょうえ? たかすけ 寛延2(1749)年〜文政8(1825)年
軍次兵衛とも。 直心影流4代・藤川彌司郎右衛門近義の高弟で、第5代に指名。藤川家臣から与力となる。
安永6(1777)年、下谷(上野)車坂に道場を開くが浅草門跡裏(もんぜきうら=東本願寺の北の地名)へ移る。
直心影流6代に弟子の団野源之進を指名したが、師の藤川近義の養子・藤川次郎四朗近徳(藤川派初代)
の後見役でもあった。


【 井上傳兵衛(正道?)】  天明6(1786)年?〜天保9(1838)年
井上伝兵衛も団野源之進に同じく、赤石郡司兵衛孚祐の弟子。藤川鵬八郎、酒井良佑(越後 高田藩士)と
共に三羽烏と云われた直心影流の遣い手。伊予松山の武士で江戸に出て幕臣(西丸御徒)となり、車坂に
道場(赤石から譲渡か?)を持った。
   鳥居耀蔵の手下であった本庄茂平次が暗殺したとされるが、肥前平戸藩元藩主・松浦靜山が本所の
   下屋敷(墨田区横網1-12)で記した[甲子夜話]では、逆恨みした浪人が仲間4人で闇討ちしたとする。


【 藤川鵬八郎 】  寛政3(1791)年?〜文久2(1862)年
   (流布本は全て、雑誌[旧幕府]が[鴫八郎]と誤ったのをそのまま転載しているが、[講談社版]だけは
    [鴫]ではなく[鵬]に近い字と指摘している)
直心影流藤川派初代・藤川次郎四郎近徳の二男で藤川派3代の藤川彌二郎右衛門(貞近・整斎)の前名。
剣術の腕を買われ上野国沼田藩士となる。同時代の直心影流でも実戦的改革派の男谷精一郎とは異なり、
三尺三寸の竹刀と形稽古の伝統を重視した。[天保雑記][安政雑記][整斎随筆]等の著作がある。

藤川近義については年譜35歳参照。


 

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