勝夢酔(小吉)年譜

享和2(1802)年 ~ 嘉永3(1850)年

(年譜に限らず、間違・誤記等の御指摘・御叱責は、musui@gmail.com の先頭に1802を附加して、お送りください)

西暦 和暦 数え       獨   言   概   要  ( 獨言本文は年齢をclick )
1802 享和2 1歳

御旗本・男谷平蔵忠恕の三男として、実母の家(父の妾、詳細不詳)で生れる。称・左衛門太郎、諱・惟寅、幼名・亀松。

    誕生後

父の屋敷(深川油掘)に育母(父の本妻)が引取り乳母で育てる。強情で我儘、悪さばかりして困らせた。
(悪戯をしても育母が父に隠してくれ、父も子供は元気でなければ と云う育成方針だった)

1806 文化3 5歳

前町(まえまち)の三つ程年上の子・長吉の唇を喧嘩で切り、父に折檻され庭下駄で頭を打たれ傷が残る。
「月代(さかやき)の度に血が出て長吉を思ひ出す」

1808 文化5 7歳

冬、17歳と称し勝甚三郎元良と養子縁組、幼名を小吉に改称。平蔵が金の力で息子・小吉を御旗本の後継ぎとする。
町の子、二三十人と一人で脇差を抜いて大喧嘩、負けると思い腹を切ろうとし、この一件で近所の子供は手下になる。

1809 文化6 8歳

深川は津波(水害)が多いので本所に普請する間、駿河台太田姫稲荷 の向い、若林龍之助の屋敷を借りて転居。
勝家の義祖母とは不仲。

1810 文化7 9歳

本所相生町三丁目と亀沢町の間に新居が落成し転居。 義祖母との不仲は増大し困惑する。
友達や弟の鉄朔と共に、亀沢町や緑町の子供達と脇差を抜いて大喧嘩、父から30日程 目通り禁止、押込められる。
勝家の親類で御竹蔵の南に住む鈴木清兵衛に柔術を習い始めるが、相弟子達と 榛の木馬場や御竹蔵で喧嘩する。

1811 文化8 10歳

夏、本所菊川町の一色幾次郎に乗馬を習い始めるが小言を云うので、先生を駿河台の大久保勘次郎に替え 馬も買う。

1812 文化9 11歳

駿河台の鵜殿甚左衛門に剣術を学び始める。

1813 文化10 12歳

湯島聖堂の肝煎役から【大学】を学ぶも身を入れず、西隣の 桜の馬場で馬を乗り回し、肝煎役から教授を断られ喜ぶ。
7月、父・平蔵60歳が御殿詰御勘定組頭を退職(隠居か)。 

1814
1815
文化11
文化12
13歳
14歳

(文化12年であろう)長兄・彦四郎思孝(信州中之条の代官)が代官3年目に一時帰国し 秋に中之条へ帰任。
義祖母の嫌がらせ苛めに益々困惑し胆も煎れる。
この前後の年は夢酔が年齢の記憶を違えている可能性が高い)

1815
1816
文化12
文化13
14歳
15歳

(文化13年であろう)5月、上方で一生暮らそうと8両程盗んで家を出る。乞食をして お伊勢参り、閏8月に家へ帰る。
支配(石川左近将監忠房)に無届だったので、この月を過ぎても帰宅しないと勝家はお取り潰しの可能性もあった。 

1817 文化14 16歳

初めて逢対(あいたい)に出るが自分の名が書けず、他人に代筆して貰う。長兄の部下に誘われ吉原へ初登楼、面白く毎晩の如く通う。
金が無くなり信州の御年貢金7千両から2百両盗み、一月半のうちに吉原で使い切る。
従甥の新太郎(後の男谷下総守・精一郎)らと、蔵前や浅草で刀を抜いて しばしば喧嘩をするが刀が折れ、刀の目利きの稽古を始める。
長兄と信州へ行き、11月末に戻る。

1818 文化15 17歳

従甥の忠次郎と試合をするが一本も勝てず、忠次郎の勧めで團野源之進義髙(眞帆齊)に師事し稽古に専念する。
(この頃に)四谷伊賀町の浅間稲荷横丁組屋敷に借宅する兵法家・平山行蔵潜(兵原)を初めて訪ねる。

1819 文政2 18歳

団野から伝授を二つ貰う。浅草馬道の生江政左衛門道場で初の他流試合に勝ち、忠次郎は道場主に勝つ。
その後、諸方で試合をし下谷・浅草・本所辺りでの他流試合を仕切る。「他流は中興先ヅおれがはじめた」
養子に這入った勝家の娘・信と結婚、住んでいた長兄・男谷彦四郎の庭内に新居を普請して貰う。
長兄(彦四郎)に附いて信州へ行き検見をし、「一番悪処の場へ棹を入れて(中略)百姓が嬉しがった」。
9月、育母(智泉院)歿す、御用をしまって11月始めに江戸へ帰る。

1820 文政3 19歳

諸方の剣術遣いを大勢、子分の様に諸国に出し、名が広まる。
夏、遠州森の雨宮神主の息子・中村帯刀が、石川瀬兵次(瀬平治)の弟子になりたがったので紹介してやる。
他流試合を商売の如くにし、毎晩喧嘩し、子分を連れて歩き、借金が増える。

1821 文政4 20歳

長兄と越後水原の陣屋へ行き支配所を巡見し、「反物 金を たんと貰って帰った」。
暮に親類へ金を借りに行く。

1822 文政5 21歳

金が無く、「逢対にいくにも着たまゝになったから気休めに吉原へいった」。 (以降3年程は別の著作[詠め草]では1、2年ずれがある)
5月28日、上野車坂の井上傳兵衛道場で剣術道具一組を借り、旅支度もせず雪踏で東海道へ駆け出し、再びの家出。
翌日、箱根の関所の縁側で剣術修行と称して掛合い、手形無しで関所を通る。
稽古道具に「水戸」と書いた小絵符を付け家来を装い、三島宿の脇本陣に泊り九十六文川の大井川も蓮台で渡る。
遠州森の天宮大明神に中村帯刀を訪ね滞在中に、従甥の男谷新太郎が説得に来たので7月江戸に帰るが、父に3畳の座敷牢へ入れられる。
 (21歳の秋から24歳の冬、その間に手習を始める。別著[詠め草]では22歳に出奔、23歳で座敷牢、と記す)

1823 文政6 22歳

1月30日、長男 麟太郎 義邦(海舟)誕生。
[詠め草]には「廿二といふにはじめて男子を生し 身はますますほういつして家をはしり 身は遠江なた行く舟と諸ともに 駿三の両国に漂流し・・・」

1824 文政7 23歳

[詠め草]には「廿三にして身を一室にちヾめ・・・」

1825 文政8 24歳

隠居して3歳の息子に家督を譲りたいと云ったら、父に、一度は御奉公し悪評を挽回し養家へも孝養するのが先決、と諭される。
「尤のことだ」と初めて気付き、長兄に、出勤したいと云ったら、手前の算段で勝手にやれ、今度は面倒を見ない、と云われる。
「少も苦労はかけまい」と云う書付で檻から出て、赤坂喰違外の組頭・大久保上野介宅へ毎日通い、裃姿で逢対に励むが番入の心願叶わず悔しむ。
此年、本所南割下水の北に住む旗本・天野左京の二階を借りて転居後、同地所内に新宅を普請し住まう。
左京死亡後は2歳の跡取りと本家(天野岩蔵)との家督相続騒動の面倒をみてやる。

1826 文政9 25歳

(この年の頃、大病を患ったと云う[平子龍先生遺事])

1827 文政10 26歳

此年、本所南割下水の南に住む旗本・山口鉄五郎の地所にある空家に転居。
逢対に出る外に、諸道具の売買を内職とする。
6月9日、実父・男谷平蔵が卒中風(脳卒中)で急逝、享年73。「がっかりとして なにもいやになった」。

1828 文政11 27歳

横川の東、本所猿江の摩利支天神主・吉田兵庫に頼まれ、[亥の日講]を拵えてやる。

1829 文政12 28歳

麟太郎が11代将軍家斉の孫・初之丞(發之丞、後の一橋慶昌)の学遊相手として西丸御殿へ出仕する。
刀鍛冶の氷心子秀世に刀を打たせ、研屋・本阿弥三郎兵衛の弟子に砥ぎを習い、刀鑑者を集め刀剣講も主催する。
千住で胴切りを試し、御様御用(おためしごよう・刀の試し切り)浅右衛門に弟子入りし土壇切りをする。
地主・山口が貧乏なので借金の片を付けてやり、地代や家賃を払わぬ者を追い出し、借主を入れ替え山口に悦ばれる。

1830 文政13 29歳

摩利支天の吉田兵庫が「太平楽をぬかし不法の挨拶をしおる」ので、「御旗本へ対して不礼言語道断」と揉め事となり講から引き揚げ、後に講は消滅。
両部真言に詳しい殿村南平に、真言・病の加持・摩利支天の鑑通の法、修行の術などを習う。
落合の藤稲荷、葛西(金町)の半田稲荷や王子稲荷への百日参詣、神前での百五十日水行、断食など試す。
尾張屋亀吉が、長崎奉行の小差になりたいと頼んでいたので、久世伊勢守が長崎奉行になった時に世話してやろうとするが亀吉は亡くなっていた。

1831 天保2 30歳

地主(山口鉄五郎)が御代官の職を願望するので異見したら、怒って地面を返せとの次第になり、本所入江町の御旗本・岡野孫一郎融政の地面へ転居。
麟太郎が9歳になり西丸御殿から下がる。某日勉学に行く途中に病犬に睾丸を噛まれ重体となり、金比羅で毎晩水垢離をする。
「始終おれがだゐて寝て 外の者には手を付けさせぬ 毎日々々あばれちらしたらば近所の者が『今度岡野様へ来た剣術遣ひは子を犬に喰れて気が違った』といゝおった位だが とふとふ きづも直り七十日めに床をはなれた 夫から今になんともなゐから病人はかんびやうがかんじん(看病が肝心)だよ」
地主の岡野の借金を、丹精して拵えてきた武具を売ってまでして立て替え、四文の銭にも困り大迷惑。
岡野の母も倅を隠居させてくれと頼むので、支配の長井五右衛門に話を通してもらい、孫一郎に隠居の沙汰が出る。

1835 天保6 34歳

閏7月、地主・岡野孫一郎が亡くなり、跡取り・融貞(とおさだ)の嫁探しや岡野家の家計算段をしてやる。
「借金が五千両計りある故 持ちこらへが馬鹿の者にはできぬ」

1836 天保7 35歳

この前後、下谷から本所の諸道場で行司役など取り仕切る。
次兄・松坂三郎左衛門則方(元・男谷忠蔵)が越後水原の代官になる。
道具の市は毎晩欠かさぬ様にして儲けるが、吉原通いも続け、地廻りの悪供も手下になり、「金も いかゐ事 遣った」。

1837 天保8 36歳

夏、昨今の所業は捨て置けぬと、長兄が庭に二重囲いの檻を作り、押し込めるから沙汰を待てとの騒ぎになる。
夜になっても沙汰がないので吉原へ行って泊まる。「おれはいん居をして早く死だがましだ 長いきをすると息子がこまるから」
10月、大火事で吉原全焼。山之宿(やまのしゅく)の仮宅で営業中の佐野槌屋で、橋場・銭座の息子・熊および長鉤をもった30人と大喧嘩する。

1838 天保9 37歳

春、実質的に隠居か。7月27日、隠居並びに麟太郎への家督相続許可(小普請組、長井五右衛門支配)。

1839 天保10 38歳

桜の頃、緋縮緬の襦袢に短か袴で木刀一本を差して、浅草新堀に島田虎之助の道場を訪ね、吉原へ誘い驚かせる。
初夏、松平内記の家来・松浦勘次を供に、他流試合をしながら下総を旅する。
7月に有髪改名を願い出、10月17日脇坂淡路守安董(中務大輔)より許可御達し、夢酔に改名(海舟伝稿では9月16日)。
秋から冬に掛け地主・岡野とその用人・大川丈助の立替金を巡る訴訟騒ぎを片付ける。
11月9日、岡野の知行地・摂州御願塚村へ金策に旅立ち、熊谷、大坂経由で摂州伊丹南の御願塚村へ至る。
大坂見物や能勢妙見、多田権現を参拝し、狂言めいた芝居を打ち600両調達し、京都で休息、12月9日江戸へ帰る。
12月12日、(義)祖母(内の祖母、勝甚三郎の母)歿す。

1840 天保11 39歳

前年の無届での摂州旅行を咎められ2月から9月初旬まで他行留になり、岡野から月々1両2分と4人扶持を貰う。
3月、[詠め草]を著わす。
中二階を建てたり、茶を始めて道具を買い集める。金が要るので、女郎屋や茶屋で用心棒代を貰い、商人や家主(いえぬし)までもが附け届けをし、
 「なんのことはなゐ 所の旦那のよふだ」。
6月18日、長兄・彦四郎思孝歿す、享年64。

1841 天保12 40歳

2月、病になるが8月末には少し良くなり、金は湧く物の様に使い騒ぎまくる。
12月始めに寝返りも出来ぬほど体が浮腫む大病になる。
天保の改革の世にも関わらず騒ぎまくったので、12月22日に麟太郎の同僚・保科栄次郎邸内で蟄居謹慎させられる。
麟太郎も含め家族中が本所から保科邸内(虎御門内さざえ尻)の、たった二間へ転居し【鶯谷庵】と名附ける。

1842 天保13 41歳

夏頃、病が全快する。毎日々々、諸々の著述、物の本、軍談などを見る。

1843 天保14 42歳

初夏、[平子龍先生遺事]を脱稿か。初冬、[夢酔獨言(鶯谷庵獨言/氣心色勤身)]を脱稿か。

1845 弘化2 44歳

秋、麟太郎が、(本所?元町の)炭店(戸野目屋)・砥目茂兵衛の娘(岡野孫一郎養女)民と結婚。

1846 弘化3 45歳

春、麟太郎夫婦が赤坂田町中通り(現みすじ通り)へ転居(藤野茂兵衛から借地・借家、一家も同居か)。
9月15日、孫・おゆめ(夢、麟太郎長女)誕生。

1849 嘉永2 48歳

10月29日、孫・おたか(孝、麟太郎二女)誕生。

1850 嘉永3 49歳

9月4日卒。脚気が遠因? 戒名は栄徳院殿夢酔日正居士。
勝家の菩提寺であった本光山清隆寺(新宿区赤城元町1-27)に葬られるが、約百年後に青山霊園へ移された。



戻 る 表 紙 前 付 系 図 居住地跡 後 付

inserted by FC2 system