深川の屋敷は津波(水害)に度々会うので、本所へ屋敷替えの普請が出来るまで、駿河台の
太田姫稲荷の向こうの若林の屋敷を当分借りていたがの。其その屋敷は広くって庭も大層にて
隣に五、六百坪の原があったが化物屋敷と みんなが話した。
本所(ほんじょ)の江戸時代の発音は「ほんぜう(ほんじょう)」(古称は本荘、本城、本庄)、確か
   志ん生は「ほんじょ~」と咄した。発音は本庄のそれではなく 本所を引き延ばしたものと記憶する。


俺が八ツばかりの時、親父が内中の者を呼んで、その原に人の形を拵いて「百物語をしろ」と
云った。夜みんなが隣の屋敷へ一人づつ行って、人形の袖へ名を書いた札を結び付けて来る
のだが、みんなが怖がって可笑しかった。一番仕舞え(終い)に俺が行く番であったが、四文銭
磨きて人形の目に貼り付けるのだ。夜の九ツ半(1時頃)ぐらいだと思ったが、其晩は真っ暗で
困ったが到頭 目を付けて来たよ。みんなに褒められた。
この記述から当時の百物語の遊び方が、単に物語毎に蝋燭を消していくだけでなく、もう少し
   手の込んだ肝試しであった事が窺えるし、午前1時と云うのも興味深い。


俺の養家のばゞあ殿は若い時から意地が悪くって両親も苛められて、夫それ故に若死をしさった。
俺を毎日々々苛めさったが俺も忌々しいから出放題に悪態をついたが、その時 親父が聞付けて
怒って俺に云うには「年もゆかぬに婆様に向かって己の様な過言を云う奴はない。始終が見届け
ない(最早これまで、許せない)」 とて、脇差を抜いて俺に打付けたが、清と云う妻(下女カ)が謝って
くれたっけ。


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