天野の地面にいる内も兎角地主の後家の事でむづかしい事ばかりが出でゝいでて困ったから、
三年目(1827年、26歳に同町(南割下水)山口鉄五郎の地面に家作があるから引越した。
この鉄五郎の惣領は元より心易かったが、色々内をかぶった(家を難儀が被った)時に世話を
やいてやった故、其ばあ様が「是非(うちの)地面へ来い」 と云うから行った。

山口鉄五郎は国後・択捉調査や那須の名代官で知られる鉄五郎高品(1813年に永々御目見以上、
30俵3人扶持)、この頃は既に他界(1821年に病死)。 「鉄五郎の惣領」は次代で同じく鉄五郎。
右図(1835年頃)の山口助之進は夢酔が記述する「鉄五郎の惣領」の更に次代(高品から三代目)。
その隣の池田新之助は武鑑に「南割下水山口助之進地面借地住宅」とある。
この山口地面の池田新之助以前の借主が夢酔(1827年から1831年まで借地住宅)であろう。ここも
これまでは特定されていなかった勝一家の住居跡である。
 


此年 勤めの外には諸道具の売買をして内職にしたが始めは損ばかりしている内 段々慣れて
来て金を取った。 始めは壱月半ばかりの内に五、六十両 損をしたが、毎晩々々道具屋の市に
出たから、随分 徳(利益)が附いた。なんにしろ早く御勤入をしようと思った故、方々稼いで歩いて
いた内に男谷の親父が死んだから、がっかりとして何も嫌になった。 しかも卒中風とかで一日
の内(に)死んだ。其時は俺は眞崎稲荷へ出稽古をしてやりに行っていたら 内の子侍が迎いに
来たから、一散に駆けて親父の所へ行ったが、最早事が切れた。 夫から色々世話をして翌日
帰った。 毎日其事にかゝっていた。 息子が五ツの時だ。 夫から忌明が明いたから又々稼いだ。

実父男谷平蔵が急逝したのは文政10(1827)年6月9日で、小吉26歳、麟太郎5歳。

真崎稲荷は江戸に二ヶ所存在した。一つは橋場の北、隅田川岸にあった高名な稲荷で、
現在は近くの石浜神社の境内に合祀されている(大正末期の護岸道路工事に伴い移設)。
今一つは隅田川から小名木川への這入り口の左手にある祠で、柾木や正木と書く様だが、
江戸名所図絵には真崎稲荷とある。
夢酔は説明なしで単に真崎稲荷と書いているので、当時 誰もが知っていた前者であろう。
まっさき稲荷と云い、真先稲荷とも書かれる。



 

 


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