山中で日が暮れてから宿引め が泊まれとぬかしたが、到頭我慢で三嶌まで行ったが、四里の間あいだ
五月廿九日の日だから真暗まくらがりで難儀した。雪駄を脱いで腰へ挿み、漸々夜の九時分、三嶌へ
来て、宿へ懸かって戸を叩き、
「泊めて呉れろ」 と云ったら、
「当宿は韮山様(韮山代官所、江川太郎左衛門家が代々代官を世襲)から御触れで一人旅は泊めぬ」 と
云うから、問屋場(宿場の管理所)へ寄て起こして宿を頼んだら、そいつが云いおるには、
「問屋が公儀の御触れは破られぬ。(そんな)差図は出来ぬ」 と決めるから、そこで俺が云うには、
「街道筋三嶌宿にては水戸の播磨守が家来は泊めぬか。俺は御用の儀があって遠州雨の宮(天の宮)
へ御祈願の使に行くのだが、仕方が無いから是より引返して道中奉行へ屋敷より掛け合う故、夫迄は
御用物は問屋へ預け置くから大切にしろ」 とて、稽古道具を障子越しに投げ込んだ。
  水戸の播磨守は興味深い。祖父の男谷検校は莫大なる金を水戸家に貸していた事があるし、敬っていた
  従兄の男谷忠之丞信孝(幕末の剣聖・男谷精一郎の実父)は水戸家臣だったので、水戸家(権中納言)が
  播磨守なぞではないのを夢酔が知らないとは思えない。播磨守は夢酔の単なる口から出まかせか。
  或は水戸家支藩(御連枝)常陸国府中藩(茨城県石岡市)の松平播磨守頼説(当時の藩主)を指すのか。
  亦、以下に出る役人共は水戸の播磨守をどう理解して対応したのか、単に夢酔の勢いに押されたのか?


そうすると役人共が胆を潰し起きて出おって、土に手をつきおって、
播磨様とは不ぞんぜず 不調法恐れ入った」 とて色々謝るから図に乗って、
「荷物は預けるから急度きっと受け取りをよこせ」 と云ったら、困りおって外に二、三人も出て這いつくばり、
「如何様にも致しますから まづまづ宿屋へ少しの内、行って休足して呉れろ」 と云うから、漸々、
案内」 と云ったら脇本陣へ上げおって、だんだん不調法の訳を詫び しおり、飯を出したから猶々喧しく
云ったら、人に人が重ねて、
「当宿の宿役人が不のこらず しくじるから、何分にも勘弁しろ」 と云うから腹が癒えた故、赦してやった。

そうすると酒肴を出して馳走しおった。其時 書付をよこせと云ったら、夫に困って夫も出すまいと云った故、
又々引っくら返してやったら金を壱両弐分出して又々謝りおった故、金が思いもよらず取れる故 済まして
やった。 その内に夜が明けかゝったから、寝ずに三嶌を立ったら道中駕籠を出したから、先の宿まで寝て
行った。其筈だ、箱根を越すと稽古道具へ水戸と云う小絵符えふ荷などに附ける札を書いて差しておいたもの
だから、旨く行ったのだ。俺が思うには、是からは日本国を歩いて なんぞあったら斬死きりじに斬り合って死ぬ
をしようと覚悟して出たからは、何も怖い事は無かった。

夫から だんだん行って、大井川九十六文川になったから問屋へ寄って、
「水戸の急ぎの御用だから早く通せ」 と云ったら、そうそう 早々?怱々?人足が出て、
「大切だ、播磨様だ」 とぬかして壱人まえはらって(一人が前を掃い?)俺は輦台れんだいで越し、荷物は人足が
越したが、水上みなかみに四人並んで水をよけて通したが、心持がよかった。
  この当時、大井川の渡しは川底が最も浅い時の肩車が48文(夜鷹蕎麦3杯分)、水量が増し
  川留直前が深さ4尺5寸(約1m40cm)で94文なので、九十六文川は大井川の川留の意。
 


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