【島田虎之助直親(見山)】 しまだ とらのすけ なおちか (けんざん) 文化11(1814)年~嘉永5(1852)年
 


文化11(1814)年: 4月3日、豊前国 中津(奥平家)城下の東南、島田村に誕生
             中津藩士・島田市郎右衛門親房(三十石、料理方)の四男、母いし(以志)
文政 3(1820)年: 父歿す
文政 6(1823)年: 肥後 人吉藩の祐筆役・宮原兵衛之助(母の妹の夫)の養子惣領となるも数年で解消
文政 9(1826)年: 中津藩剣術師範・堀十郎左衛門(一刀斎太郎太夫、次郎大夫とも)に外他(とだ)一刀流を学ぶ
文政12(1829)年: 九州一円を武者修行
天保 2(1831)年: 江戸へ向うも下関の酒造家・奈良屋惣五郎に食客中、同娘・ふさ との間に ます、とら の二女誕生?
            (造り酒屋・長門屋嘉兵衛の娘との間に女子・菊 とも?)
天保 3(1832)年: 博多御供所町の聖福寺で仙厓禅師に禅学を師事、書筆に親しむ硯山の号を授かる(後に見山と称す)
天保 4(1833)年: 九州を再巡し負けを知らず
天保 5(1834)年: 大坂堂島の藩邸で福沢百助(諭吉の父)と再会後、近江国水口の中村栗園の紹介で井崎為輔に師事、
天保 6(1835)年: 山陽道を下り長州吉田(下関市吉田)の笹尾羽三郎道場を大兄・金十郎と訪ねた後、中津へ帰る
天保 8(1837)年: 江戸での修業を決意し、大坂、近江水口、飛騨高山(高柳又四郎、金三郎に師事)、松本、甲府を経て、
            (11月?)江戸へ達す(江戸で井上伝兵衛と男谷精一郎に完敗?)
天保 9(1838)年: 2月7日、男谷精一郎に入門、一月程で免許皆伝(一年弱で男谷道場師範代となり勝麟太郎らを指導)
天保10(1839)年: (春までに)浅草新堀に道場を開く、夢酔(勝小吉 左衛門太郎惟寅)と知り合う
             秋、房州の館山に兄・鷲朗友親(館山藩指南役)を訪ねた後、鹿島・鹿取の両神宮を参拝。 更に水戸、
             仙台、会津、日光、宇都宮、佐野、佐倉、成田、船橋、市川、と旅をし江戸へ帰る
天保11(1840)年: (この前後の年に)麟太郎が島田道場に入門
天保13(1842)年: 母・いし危篤の報を受け3月中津へ一時帰国、直後に母歿す
天保14(1843)年: 19歳で男谷道場の免許を受けていた麟太郎(21歳)に直心影流嶌田派免許皆伝を授ける
嘉永 5(1852)年: 9月16日病没 享年39
             道場に近い浅草松葉町の普照山正定寺(しょうじょうじ 台東区松が谷2-1-2)に葬られた。
               戒名: 政殿院達誉見山居士
               墓石左側面の碑文(右図)は師・男谷精一郎の撰で、
               「余哀嘆殆如失一臂也」(余は哀しみ嘆き殆んど一臂を失う如し也)とまで記している。
               尚、碑文2行目最下段のの誤記と思われ(天保年間に丙戌はない)、戊戌が天保9年。
               (墓石には三番目の兄・鷲朗の名も併刻)

江戸に出た虎之助は、当時既に江戸随一との名声があった男谷精一郎に試合を申し込み、例の如く精一郎の2勝1負。
余勢を駆って次に井上伝兵衛へ挑み完敗。入門を願うと、男谷に就けと井上が云うので、男谷から1本取ったと答えると、
井上が今一度男谷を訪ねるようにと添状を渡す。井上の添状を持って再戦した島田は、男谷の凄さに身動きすら出来ず。
天保8年11月24日に男谷道場での試合とされる話だが、出来過ぎのような・・・。

天保10年、水戸を訪ねた時に水戸家指南役と御前試合を行い2勝1負、古今の名勝負と斉昭(烈公)に称賛された。
武蔵国 忍(おし)藩(埼玉県行田市)の剣術指南を勤め、藩主松平(奥平)忠国(?) から20人扶持に遇せられた。忍藩
以外にも薩摩藩、津藩(藤堂家)、土浦藩など数藩の剣術指南を勤めたとされる。

江戸で剣術遣いとして名を馳せた後にも書をよく読み、漢学者として高名な津藩士・斎藤拙堂(徳蔵正謙)は、
見山剣客たりと雖も もと読書の人なり」と評した。
亦、西洋の武器兵学にも関心を持ち、高島秋帆の徳丸ヶ原での洋式砲術・銃陣の演習(天保12年)に麟太郎を誘い
見学したとされる。 麟太郎の蘭学入門も虎之助の影響が大と云われ、麟太郎に蘭学の師永井青崖を紹介したのは
島田道場での寄宿相弟子・眞角勝輔の父(永井青崖と同じ備前福岡藩・黒田家中屋敷内に勤住)とされる。
   永井(青崖)助吉は名を則(則諄)、字は志訓、筑前人。第10代藩主・黒田斉清の命で長崎に蘭学修業し、江戸
   溜池南の黒田藩中屋敷で11代藩主・長溥(ながひろ)の蘭学侍従を務めた。 長溥に購入してもらった世界地図を
   模写して銅版萬国方図(日本初のメルカトル図法世界地図)や銅版萬国輿地(よち)方図、幅広い地理学書である
   泰西三才正蒙(たいせいさんさいせいもう)などを著わした。 嘉永7(1854)年10月歿(海舟に拠れば長崎で自刃)。 島田虎之助墓碑文(男谷精一郎撰)


島田虎之助は夢酔(小吉)を先生と呼んでいた。
夢酔も記している様に虎之助は非常に短気な性格だったと伝わり、墓石碑文にも「性激烈」とあるが、
「剣は心なり 心正しからざれば 剣又正しからず 剣を学ばんと欲すれば 先づ心より学ぶべし」 と剣心一致を説き、
(仙厓禅師に学んだ禅学から剣禅一味も)、夢酔が虎之助の弟子に就けた麟太郎に大きな影響を及ぼした。
海舟は島田の下での修行を下記の様に語っている(明治29年1月15,16日の國民新聞 1795 と1796 號。仮名遣い等は改めた)

全体おれの家が剣術の家筋だから、おれの親父も骨折って修業さそうと思って、当時剣術等の指南をして居た
島田虎之助と云う人に就けた。 この人は世間なみの撃剣家とは違うところがあって、始終、
「今時みなが やり居る剣術は、かたばかりだ。せっかくの事に足下は真正の剣術をやりなさい」 と云って居た。
それからは島田の塾へ寄宿して、自分で薪水の労を取って修業した。寒中になると島田の指図に従うて、毎日
稽古がすむと夕方から稽古衣一枚で、王子権現に行って夜稽古をした。
(中略)
彼の島田と云う先生が、剣術の奥意を極めるには まづ禅学を始めよと勧めた。それで、たしか十九か二十
時であった、牛島の廣德寺と云う寺に行って禅学を始めた。
(中略)
こうして殆んど四ヶ年間、真面目に修業した。 この坐禅と剣術とが おれの土台となって、後年大層ためになった。
(下略)

・「親父(夢酔)が島田に就けた」と語っている島田の塾は、夢酔が訪ねた浅草新堀の道場であろう。

・天保12年12月22日(麟太郎19歳)に勝一家は、本所入江町の岡野邸から虎御門内サザヰ尻の保科邸(鶯谷庵)に転居
 しているが、「島田の塾へ寄宿」と述べているので麟太郎自身は鶯谷庵に永くは住まなかった事になる。

王子権現は、向島、本所(や墨田区)の人には御馴染の牛の御前牛嶋神社)の別称。貞観2(860)年の創祀(須佐之男
 命)、後に清和天皇の皇子貞辰(さだとき)親王も祀るので王子権現。浅草新堀の島田道場から歩くと約3Km。
 (下町を知らない人は、これを北区の王子権現と解説するが冗談ぢあない、北区の王子権現より460年も古い歴史を持つ)

・麟太郎20歳は天保13(1842)年、夢酔は41歳、島田虎之助は29歳。
 19歳で身内の男谷道場から免許を得ていた麟太郎に、虎之助は禅学の修業もさせて21歳で島田派としての免許を与えた。

牛島の廣德寺弘福寺の誤記(記者の聞き違えであろう)。 弘福寺は黄檗宗の禅寺で、「ぐふくじ」 ではなく、「こうふくじ」。
 これを國民新聞記者が「こうとくじ」と聞き違えたか。 正式には牛頭山弘福禅寺、特徴ある支那風の建築でも知られる。
 (右図に残る様に当時の王子権現は弘福寺の西隣にあったが、昭和初年の東京大復興で今の言問橋東南詰に移転した)




































弘福寺と、弘福寺裏の隅田川との間にある牛嶋神社(牛の御前、王子権現)の跡地




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